2013年3月 6日 (水曜日)
求め続けているもの - 1.日々の雑記
答えが見えない状況でも、自分なりに仮説を立てて答えに至るまでやり続けるどんな困難が待ち受けていたとしても、最後には絶対に答えにたどり着くはずだからと、立ち向かっていく勇気を持たせることが、教育の基本的な考えであり姿勢ではないだろうか
答えが見えなくなると、ほとんどの人はパニックに陥り、答えを求めたがる重要な点は知識ではなく、思考パターンである
「学習」とは経験による行動の変化である
できるかできないかの議論ではなく、必要か必要ではないかの問題ではないかその人が本当に必要としているのか、何を?なぜ?どの程度なのか?を、正しく理解させることが大切である
wrote by Satoshi Ohtani : 20:43 | コメント (0)
なぜ日本の企業は、定期的に新卒者を採用するのか - 1.日々の雑記
日本の就業状況からの考察では
企業は、他社の文化に染まっておらず、育てやすい人材を求めて、定期的に一定の人材を採用して、社員の年齢構成に歪みを生じさせないとの観点から、新卒者の採用を重視している
wrote by Satoshi Ohtani : 20:38 | コメント (0)
成果主義と年功序列 - 貢献度と報酬をめぐる2つの原理 - 1.日々の雑記
成果主義による報酬分配を肯定しながら、自分の貢献度の低さに直面すると、そのことを肯定的に受け止めない
道具的、手段的関係においては、貢献度の差を顕在化させる分配手続が、組織目標の達成のために妥当とみなされる一方で、自己完結的関係においては対等性が崩れることになる
組織過程ではこの2つの関係が同時に追求されるため、貢献度分配への支持とそれを提案した人(社員など)に対しては非好意的態度になるとの矛盾が顕在化することになる
年功序列制度では、所属期間という代理的指標による能力主義が実施されており、所属期間の長さが技能の熟練度であり、すなわちそれを能力と理解している
年功序列制度は、長期的な時間展望の中で社員間の対等性を確保するとのメカニズムであり、短期的成果によって格差が拡大していく成果主義にはない特徴が存在していることになる
... 続き
wrote by Satoshi Ohtani : 20:19 | コメント (0)
問題解決のアプローチ - 1.日々の雑記
問題を解決する際のアプローチは、文学的なアプローチではなく科学的なアプローチでなくてはならない。端的に言うならば、他人の言ったことを「そうなんだ」とたやすく思わないことである。
問題を解決する場合は、必ず事実にもとづきデータを採取する。仮説を立てたのならば、その検証の材料となるデータを収集することが大切である。そして繰り返し、自分に問いかけて自問自答することも大切である。
問題の中には、ある程度の情報分析だけである程度の結論がみえてくることもある。その場合であっても、必ず実証し検証することで事実を明らかにすることが重要なのだと思う。
何が現象(結果)で、何が本当の理由(原因)なのかを、自分の目で確認することを大切にする。そして、その結論が出たのならば、その具体策(解決策)を立てて、初めて結論となることを忘れないように。
... 続き
wrote by Satoshi Ohtani : 19:59 | コメント (0)
2012年9月 3日 (月曜日)
第50回 世界文化遺産「平泉」の感想 - 2.コラム
「興味」との言葉が、文章中に多く見受けられました。
仕事においても、必要かつとても大切な要素と感じています。行動の原点とも言えますし、自分自身を変えることができる、簡単かつ重要な要素なのだと思います。
興味との言葉を思考した際に、主に対象物に対する興味と考えることが多いのではないでしょうか。
対象物が人であれば、相手の気になる点や聞きたいことを探すことで、もっと知りたくなったり質問したくなったり、時には会話が弾むこともあると思います。
エンジニアとしての仕事や新しい技術に対する取り組む姿勢などにも、同様に言えることであり共通することが多いと考えています。
私はさまざまなこと(対象物)に対して、そんなに興味を持てる人間ではありませんので、時には興味を持つという行為自体がとても苦痛になることがあります。
そんなこともあり、主に仕事に関しては、自分から見た対象物と考えるのではなく、対象物から見た自分に興味を持つように心がけています。
ある問題や事象に対面した時には、その問題に対して興味があるかではなく、自分がその問題を解決することができるか否か、その問題に直面したことで自分が成長したり変わることができるかもしれない、と考えるようにしています。
また仕事以外のことでは、基本的には拒まずにすべてを興味を持って受け入れる、と決めていたりします。
純粋に興味を持てるテーマは問題ではありませんが、興味を探そうとしてしまう場面などでは、自分自身に一定のルールを与えることにしています。
興味の視点や見方を変えてみる、と考えると対象物自身が何も変わらなければ、興味を絞り出すことはとても難しくなります。同様に自分の頭の構造や嗜好性が変わっていなければ、視点や見方は自分ではなかなか変えることができません。
興味とは、自分に対する新しい変化の出発点であり、新たな成長の可能性がある「刺激」なのだと考えています。これからも大切にして欲しいと思います。
中尊寺はまだ訪れたことがないため、このコラムを読んで一度訪れてみたいと思いました。
wrote by Satoshi Ohtani : 08:30 | コメント (0)
2012年8月 6日 (月曜日)
第49回 「失敗の本質」の感想 - 2.コラム
7つの視点は興味深い論点であり、あらためて勉強になります。
要因の分析結果としては、日本的な思考方法や日本人特有の組織論にあるのではとのことでした。
過去の失敗から学ぶべき点は沢山ありますが、どのような視点でその物事を分析するかによって、導く結論が相違してくるのだと思います。
私は、日本的な思考特性などそれらの要因を誘導してしまうのは、日本という風土や国民性からきているのだと分析しています。
狭く閉ざされた島国の民族は、そもそも広く開放された大地で異なる人種(異なる考えを持つ人)と生活するなどの発想がありません。そんな狭い空間で育った環境から、いざ戦争となった時には物資と人員をかき集めて(物資と人員さえかき集めれば何とかなる)手当たり次第に作業を始めてしまったりと、「物と量」で対抗することだけを発想してしまうのだと思います。
そもそも価値観は同じなので、集まりさえすればきっと大丈夫なんだと。
日本人は、同一文化、同一民族が集まった「価値観が同じ」生活が前提であり、欧州など海外の人たちは、一つの国の中に異文化、異民族が当たり前の「価値観が異なる」が前提で生活している違いが、大きいのだと思います。そのスタートラインが「そもそも、同じ(差が少ない)」と「そもそも、異なる(差が大きい)」では、思考回路に大きな隔たりがあるのも当然ではとも感じています。
そもそも人それぞれのレベルやスキルのデコボコはあまりない、そんな感覚から特質すべき何か(偶然も含む)やスーパーマンを求めたりするのかもしれません。そんなことから、当たり前のことを着実に遂行したり、できることから地道に変化させていくことが、日本人には向いているのではとも思います。(よって、イノベーションを生みにくい)
人それぞれのレベルやスキルのデコボコを、まず全体を平準化させて均一化、統一化する。そしてそのレベル全体をあげていく。そのようなことが求められるのだと思います。誰もが理解できてわかりやすいテンプレートなどを用意する、そのような基盤整備が重要になるということではと思います。
価値観は異なっていることを前提に、発想するということです。
「暗黙の了解」、「言わなくても分かってくれるはず」などの表現方法は、文化、言語、価値観などが多様化した現代社会においては通用しないと言われています。
これからは「本質と質」で対抗することを、発想できなければならないのだと思います。
最後に、私は以前に「第三の敗戦」(堺屋太一・著)を読みましたが、本質を突いた論点でかつ理論的で読みやすかったです。※個人的には、堺屋太一は好きではありませんが。
カテゴリとしては同分類となりますので、お薦めです。
wrote by Satoshi Ohtani : 08:30 | コメント (0)
2012年7月 2日 (月曜日)
第48回 「古きを知り新しきを生む精神」の感想 - 2.コラム
[2012/07/02] 第48回 「古きを知り新しきを生む精神」
ガラスの仮面は、作者が「普遍的な作品となることを目指しモチーフなどに同時代性を持たせないようにしていた」(Wikipediaから)とのことです。
同時代性を感じさせないような作品への配慮は、芸術性の高い作品(絵画、彫刻、他のアート作品など)を表現したい方(作者、製作者など)が特に意識することだと理解しています。この作者も同様に、読者にある特定の時代や空気感が伝わってしまうことによって、作品の伝わり方が人によって偏ってしまい、「普遍的な作品」の一貫としたメッセージ性が破壊されてしまうことを、避けたかったのではないかと思います。
そのためにもある時代を特定した表現は極力はしないようにとの配慮なのでしょうから、携帯電話を登場させることは論外としても、コラム執筆者がダイヤル式の黒電話(固定電話)を使った方が良いと考える理由、さらにそれを勧める理由が、私には理解することができません。同時代性をもたせない、時代背景を特定しないような配慮を施した芸術性を追求した作品から、なぜ「古いものを継承する」ことが大切ではと発想してしまったのか、とてもコラム執筆者の心の中をくみ取ることができませんでした。
さらに「古い」と「新しい」を対比させたときの一般的な議論のポイントとして、
[1]昔の景色や風景(現代と違った古い時代の変化と違い)
[2]古くても良いもの(古くても新しくても良いものがある)
[3]古き時代を懐かしむ気持ちを大切にしたい(懐古主義)
大別すると概ね上記の3つではないかと思います。
本コラムは、大方[3]を気にして書き始めたのではと思われますが、どうも途中に[2]や[1]もポイントとして登場しています。
よって、このコラムでは何を伝えたいのか、とても不明瞭です。また、古いものとして継承したい、大切にしたい(敬意と表現していましたが)ものが、いったい何を指しているのかも、とても不明瞭です。
もし仮に懐古主義としてのみ感じて書きたいと思ったのならば、川で魚を素手で捕ったり遊んだりできた、本当に昔は良かったなぁなどと、昔を懐かしむ気持ちを主体にして書けば良いのではと思います。そこから何かを学んだり、特に何かのメッセージがある訳ではないのですから。(悪いことではありません)
さらに、コラムの文頭に、「この作品は長期連載を考え、時代を特定しない風景や服装、小物などに気を配っていると聞いていたからだ。」とあります。
前述したように芸術性を重視する作者が、時代を特定しない描写とする理由は、同時に長期連載になることも考えていたということになります。この作者は、はたしてそんなことを考えて執筆するのだろうかと、とても疑問が湧きました。
以下は、やはりWikipediaにて掲載されていた記事です。
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「ガラスの仮面」は隔週誌『花とゆめ』(白泉社)に1975年(昭和50年)年発売の1976年1号から30年以上連載されている。長期連載となった本作だが、美内すずえは2巻程度で終わらせる構想であった。
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コラムには伝え聞いたとのニュアンスで書かれていますので、あまり影響はありませんが、あまり事実に反することは控えていた方が良いかもしれません。
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2012年5月 7日 (月曜日)
第46回 「判断」の所感 - 2.コラム
今回のコラムテーマは「判断」であり、日頃から判断する場面で苦慮する感情を吐露したものです。
サブテーマとしては、「その判断は、誰のためにしている(する)のか?」となります。
その判断は何のためであり誰のためなのか、自分だけの利己欲のためになってはいないだろうかです。
人は常に何らかの判断を迫られながら生活をしています。
食事をする、就寝する、勉強や仕事の場面など、自分自身で簡単に判断できるものから、単独では判断すべきではないものなど多種多様です。
判断する際に、全ての周りの人が満足できる(誰しもが文句を言わない、不満のない)、「最適な答え」を誰しもが求めます。
満足とは、いったい何なのだろうか。
全ての人が満足する事象とは、判断の不必要な単なる選択であり判断とは呼ばないのでは、そんなことも思います。
だからこそ、その判断に至ったプロセスの中には、利己欲ではない何かのため、誰かのため、その人のためになるような確固とした考えに寄った理由が入っていなければ、適切な答えとは言えないと思います。
一生懸命に判断するための材料を集めて整理したとしても、何のために結論や結果を求めているのだろうか。
それはいったい誰のために求められているのかを、最も重要視すべきではないでしょうか。
そのためには、自分の欲求を抑制(我慢)することも、時には必要ではと思います。
周辺で時々見受けられる行為として、
・自分の一方的な価値観で、他人が作ったプログラムを修正したり
・自分が認められたいなどのプライドのために、頼んでもいない仕事に興味を持ったり
など
自分さえ良ければ、自分さえ納得できれば、自分が満足できるならば、そんな自分が満足することを優先している人を周りで見かけることがあり、嫌悪感を覚えることさえあります。
判断するに値しない人たちと心中することを選択しないためにも、重要視すべきことを適切に判断することが大切である。
そんな周りの行為を見ていて感じた思いを、吐露したコラムです。
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2012年3月21日 (水曜日)
ルール - 1.日々の雑記
このことを知らない、または理解していない人間は少ない。
それでは、殺人罪が刑法の何条で定められているか、記憶している人はどのくらい居るだろうか。どのような罰則が定められているのか、正しく理解している人は居るのだろうか。
(殺人罪)刑法199条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する
この行動を抑制しているのは、理性です。人は、理性がある一定の制御をするのであって、法や規則などのルールによって制御されるのではなく、定められた罰則により縛られているからでもありません。
作業ミスを起こしてしまった時に、作業手順書やチェックリスト(マニュアル)の記載が誤っていたことを理由にする人がいます。それは、自らが気づかなかったあるいは想像できなかったことへの言い訳です。ルールとは、ある一定の水準や質を保つため、あるいは誰しもが同じ目線で考えるためのガイドブックであって、一人以上の人が混乱しないようにするための案内人のようなものです。そこに答えを求めてはいけません。
ルールは自らの手によって正しく定義できなければならないのであって、自分以外のどこかに定義されているものでも、誰かに依存するものではありません。自分がどんな生き方をすべきか、どのような生き方が正しいかなどを、誰かに言われたあるいは作ったある一定の基準や規則(マニュアル)に求めても、答えなど見つかるはずはありません。自分の基準(理性)によって、自らが定義したルールによって常に行動を心がける必要があります。
もし、誰かの言いなりや言われたままになったり、何かによって制御されることによって、自分の行動を決めているのならば、それは責任を持った、正しい大人の生き方とは言えません。
wrote by Satoshi Ohtani : 07:00 | コメント (0)
2012年3月18日 (日曜日)
言い訳 - 1.日々の雑記
自分が決して悪い訳ではなくて、誰かが何かが邪魔をするからできないと定義する人です。自分以外の外に理由を求めている限り無限の理由が存在してしまい、きりがありません。
さらに自分は悪くないので、自分を変える(変わる)必要性を感じないため、かえって根を深くしています。
自分の手は汚さずに、他人や誰かが自分のために何かをしてくれるのを、ただひたすら待ち続けているのです。
言い訳をしてはいけないのではありません。言い訳を最終的には自分に対して向けていかないと、何も解決しないですよということです。
自分のダメな箇所を見つけて真摯に受け止めては、自分のここがいけないのだから、今度はこうして変えてやってみよう。そこを少し直して、またチャレンジしてみようなどです。
原因や理由が自分にあるのだから、昨日と違う自分に、自分自身を変えていくしかないのです。
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