2013年5月28日 (火曜日)
第52回 「友人に宛てた手紙」 -欠陥品-の所感 - 2.コラム
[2012/11/05] 第52回「友人に宛てた手紙」 −欠陥品−
少し前に書いたコラムとなりますが、経緯や背景などを少し説明します。
今回のコラムテーマは「友人に宛てた手紙」、そのタイトル通りに友人にあてた手紙(メール)となります。
言い回しや言葉遣いなどは丁寧な口調に変えていますが。
その時のニュアンスなどが変わらないように、極力手を加えずに掲載しています。
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私は、いままで楽しんで生きてきたかって、自分に問いかけてみたら。
いままで誰かのために、犠牲のために生きてきたように思える。
自分のための時間を削って、誰かのために、自分を顧みずに必死に生きてきた。
でも、これからは自分のために生きてみたいし、自分の好きなことに費やす時間もたくさん取りたい。
それに考えてみれば、いままでは自分ひとりで何かしたことって、あまりなかった。
いつも誰かに頼って一緒に行動していたから、そんな意味ではまだまだ子供だった。
だから、これからはひとりだけで、旅行にも行ってみたい。
あなたはどうですか。
あなたは、とても生き生きとして、充実した毎日を送っているように見えます。
まるで水を得た魚のようです。
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こんなことを言ってくれた、友人の手紙の問いかけに対して。
自分の置かれている状況、考えや思いを述べたものです。
サブテーマは、「欠陥品」となります。
そんな嬉しいことを言ってくれるけど、そんなに立派な人間ではないし、未熟でそんな域には達してないよ。
実際の現実では、自分のような欠陥品には、苦悩の毎日だし、いつももがき苦しんでる。
僕のような地位のある人間でさえ、実際にはもがき苦しんで苦悩してることをわかってくれることで。
周りの人たちが、勇気や元気を出してもらえるならと、そんなことを思って掲載しました。
その友人は、いつも励ましたり、元気の出る言葉をかけてくれます。
そんな友人に感謝の気持ちを込めて掲載した、コラムとなります。
wrote by Satoshi Ohtani : 23:06 | コメント (0)
2012年9月 3日 (月曜日)
第50回 世界文化遺産「平泉」の感想 - 2.コラム
「興味」との言葉が、文章中に多く見受けられました。
仕事においても、必要かつとても大切な要素と感じています。行動の原点とも言えますし、自分自身を変えることができる、簡単かつ重要な要素なのだと思います。
興味との言葉を思考した際に、主に対象物に対する興味と考えることが多いのではないでしょうか。
対象物が人であれば、相手の気になる点や聞きたいことを探すことで、もっと知りたくなったり質問したくなったり、時には会話が弾むこともあると思います。
エンジニアとしての仕事や新しい技術に対する取り組む姿勢などにも、同様に言えることであり共通することが多いと考えています。
私はさまざまなこと(対象物)に対して、そんなに興味を持てる人間ではありませんので、時には興味を持つという行為自体がとても苦痛になることがあります。
そんなこともあり、主に仕事に関しては、自分から見た対象物と考えるのではなく、対象物から見た自分に興味を持つように心がけています。
ある問題や事象に対面した時には、その問題に対して興味があるかではなく、自分がその問題を解決することができるか否か、その問題に直面したことで自分が成長したり変わることができるかもしれない、と考えるようにしています。
また仕事以外のことでは、基本的には拒まずにすべてを興味を持って受け入れる、と決めていたりします。
純粋に興味を持てるテーマは問題ではありませんが、興味を探そうとしてしまう場面などでは、自分自身に一定のルールを与えることにしています。
興味の視点や見方を変えてみる、と考えると対象物自身が何も変わらなければ、興味を絞り出すことはとても難しくなります。同様に自分の頭の構造や嗜好性が変わっていなければ、視点や見方は自分ではなかなか変えることができません。
興味とは、自分に対する新しい変化の出発点であり、新たな成長の可能性がある「刺激」なのだと考えています。これからも大切にして欲しいと思います。
中尊寺はまだ訪れたことがないため、このコラムを読んで一度訪れてみたいと思いました。
wrote by Satoshi Ohtani : 08:30 | コメント (0)
2012年8月 6日 (月曜日)
第49回 「失敗の本質」の感想 - 2.コラム
7つの視点は興味深い論点であり、あらためて勉強になります。
要因の分析結果としては、日本的な思考方法や日本人特有の組織論にあるのではとのことでした。
過去の失敗から学ぶべき点は沢山ありますが、どのような視点でその物事を分析するかによって、導く結論が相違してくるのだと思います。
私は、日本的な思考特性などそれらの要因を誘導してしまうのは、日本という風土や国民性からきているのだと分析しています。
狭く閉ざされた島国の民族は、そもそも広く開放された大地で異なる人種(異なる考えを持つ人)と生活するなどの発想がありません。そんな狭い空間で育った環境から、いざ戦争となった時には物資と人員をかき集めて(物資と人員さえかき集めれば何とかなる)手当たり次第に作業を始めてしまったりと、「物と量」で対抗することだけを発想してしまうのだと思います。
そもそも価値観は同じなので、集まりさえすればきっと大丈夫なんだと。
日本人は、同一文化、同一民族が集まった「価値観が同じ」生活が前提であり、欧州など海外の人たちは、一つの国の中に異文化、異民族が当たり前の「価値観が異なる」が前提で生活している違いが、大きいのだと思います。そのスタートラインが「そもそも、同じ(差が少ない)」と「そもそも、異なる(差が大きい)」では、思考回路に大きな隔たりがあるのも当然ではとも感じています。
そもそも人それぞれのレベルやスキルのデコボコはあまりない、そんな感覚から特質すべき何か(偶然も含む)やスーパーマンを求めたりするのかもしれません。そんなことから、当たり前のことを着実に遂行したり、できることから地道に変化させていくことが、日本人には向いているのではとも思います。(よって、イノベーションを生みにくい)
人それぞれのレベルやスキルのデコボコを、まず全体を平準化させて均一化、統一化する。そしてそのレベル全体をあげていく。そのようなことが求められるのだと思います。誰もが理解できてわかりやすいテンプレートなどを用意する、そのような基盤整備が重要になるということではと思います。
価値観は異なっていることを前提に、発想するということです。
「暗黙の了解」、「言わなくても分かってくれるはず」などの表現方法は、文化、言語、価値観などが多様化した現代社会においては通用しないと言われています。
これからは「本質と質」で対抗することを、発想できなければならないのだと思います。
最後に、私は以前に「第三の敗戦」(堺屋太一・著)を読みましたが、本質を突いた論点でかつ理論的で読みやすかったです。※個人的には、堺屋太一は好きではありませんが。
カテゴリとしては同分類となりますので、お薦めです。
wrote by Satoshi Ohtani : 08:30 | コメント (0)
2012年7月 2日 (月曜日)
第48回 「古きを知り新しきを生む精神」の感想 - 2.コラム
[2012/07/02] 第48回 「古きを知り新しきを生む精神」
ガラスの仮面は、作者が「普遍的な作品となることを目指しモチーフなどに同時代性を持たせないようにしていた」(Wikipediaから)とのことです。
同時代性を感じさせないような作品への配慮は、芸術性の高い作品(絵画、彫刻、他のアート作品など)を表現したい方(作者、製作者など)が特に意識することだと理解しています。この作者も同様に、読者にある特定の時代や空気感が伝わってしまうことによって、作品の伝わり方が人によって偏ってしまい、「普遍的な作品」の一貫としたメッセージ性が破壊されてしまうことを、避けたかったのではないかと思います。
そのためにもある時代を特定した表現は極力はしないようにとの配慮なのでしょうから、携帯電話を登場させることは論外としても、コラム執筆者がダイヤル式の黒電話(固定電話)を使った方が良いと考える理由、さらにそれを勧める理由が、私には理解することができません。同時代性をもたせない、時代背景を特定しないような配慮を施した芸術性を追求した作品から、なぜ「古いものを継承する」ことが大切ではと発想してしまったのか、とてもコラム執筆者の心の中をくみ取ることができませんでした。
さらに「古い」と「新しい」を対比させたときの一般的な議論のポイントとして、
[1]昔の景色や風景(現代と違った古い時代の変化と違い)
[2]古くても良いもの(古くても新しくても良いものがある)
[3]古き時代を懐かしむ気持ちを大切にしたい(懐古主義)
大別すると概ね上記の3つではないかと思います。
本コラムは、大方[3]を気にして書き始めたのではと思われますが、どうも途中に[2]や[1]もポイントとして登場しています。
よって、このコラムでは何を伝えたいのか、とても不明瞭です。また、古いものとして継承したい、大切にしたい(敬意と表現していましたが)ものが、いったい何を指しているのかも、とても不明瞭です。
もし仮に懐古主義としてのみ感じて書きたいと思ったのならば、川で魚を素手で捕ったり遊んだりできた、本当に昔は良かったなぁなどと、昔を懐かしむ気持ちを主体にして書けば良いのではと思います。そこから何かを学んだり、特に何かのメッセージがある訳ではないのですから。(悪いことではありません)
さらに、コラムの文頭に、「この作品は長期連載を考え、時代を特定しない風景や服装、小物などに気を配っていると聞いていたからだ。」とあります。
前述したように芸術性を重視する作者が、時代を特定しない描写とする理由は、同時に長期連載になることも考えていたということになります。この作者は、はたしてそんなことを考えて執筆するのだろうかと、とても疑問が湧きました。
以下は、やはりWikipediaにて掲載されていた記事です。
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「ガラスの仮面」は隔週誌『花とゆめ』(白泉社)に1975年(昭和50年)年発売の1976年1号から30年以上連載されている。長期連載となった本作だが、美内すずえは2巻程度で終わらせる構想であった。
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コラムには伝え聞いたとのニュアンスで書かれていますので、あまり影響はありませんが、あまり事実に反することは控えていた方が良いかもしれません。
wrote by Satoshi Ohtani : 08:30 | コメント (0)
2012年5月 7日 (月曜日)
第46回 「判断」の所感 - 2.コラム
今回のコラムテーマは「判断」であり、日頃から判断する場面で苦慮する感情を吐露したものです。
サブテーマとしては、「その判断は、誰のためにしている(する)のか?」となります。
その判断は何のためであり誰のためなのか、自分だけの利己欲のためになってはいないだろうかです。
人は常に何らかの判断を迫られながら生活をしています。
食事をする、就寝する、勉強や仕事の場面など、自分自身で簡単に判断できるものから、単独では判断すべきではないものなど多種多様です。
判断する際に、全ての周りの人が満足できる(誰しもが文句を言わない、不満のない)、「最適な答え」を誰しもが求めます。
満足とは、いったい何なのだろうか。
全ての人が満足する事象とは、判断の不必要な単なる選択であり判断とは呼ばないのでは、そんなことも思います。
だからこそ、その判断に至ったプロセスの中には、利己欲ではない何かのため、誰かのため、その人のためになるような確固とした考えに寄った理由が入っていなければ、適切な答えとは言えないと思います。
一生懸命に判断するための材料を集めて整理したとしても、何のために結論や結果を求めているのだろうか。
それはいったい誰のために求められているのかを、最も重要視すべきではないでしょうか。
そのためには、自分の欲求を抑制(我慢)することも、時には必要ではと思います。
周辺で時々見受けられる行為として、
・自分の一方的な価値観で、他人が作ったプログラムを修正したり
・自分が認められたいなどのプライドのために、頼んでもいない仕事に興味を持ったり
など
自分さえ良ければ、自分さえ納得できれば、自分が満足できるならば、そんな自分が満足することを優先している人を周りで見かけることがあり、嫌悪感を覚えることさえあります。
判断するに値しない人たちと心中することを選択しないためにも、重要視すべきことを適切に判断することが大切である。
そんな周りの行為を見ていて感じた思いを、吐露したコラムです。
wrote by Satoshi Ohtani : 08:30 | コメント (0)
2012年3月 5日 (月曜日)
第44回 「習慣化を考える」の感想 - 2.コラム
習慣化とは、どうなるべきか(様態や状態)であって結果を表現したものです。また生活とは、日々の営みの全てを総称したものです。
生活のメニューに、または一部に行動を組み込むのなら、
・生活の中に、新たな一つとしてメニューを追加する
・生活の中の、既存のメニューを修正する
・そもそも生活に対する考え方(過ごし方や姿勢)を、根本的に見直す
しかありません。
その生活のメニュー(行為、行動)の中には、継続して行うべきものと単発(その時だけ)で行うもの、大別すると2種類あります。さらに、その時の欲求や要望により対処が異なるものや、機械的かつある一定の条件で行うものもあれば、難しかったり嫌だとしても必ず行わなければならないものなど、多岐にわたっていると思います。
まず、今回のコラムは「なぜ、続けられないんだろう、私は」とのテーマと理解しています。とてもシンプルなテーマです。「なぜ続けられないんだろう、そして続けるためにはどうしたら良いのか」なのですから。前述の点を整理しないまま、どうも手段(その行為、続けるという行動)だけが論点となっているように思います。
例えば、ウォーキングを継続して続けられないことをあげた時に、「ウォーキング」を継続して行いたいのか「有酸素運動」をしたいのか、そもそもその本当の理由(目的)は何なのだろうです。そして自分自身の、それに対するその必要性ではないでしょうか。
まずは簡単なことから始めるまたはやってみるは、興味を持って良い対象かどうかの判断の際に行うべきことです。やるべきかやらなくても良いかの判断が難しい、またはそれを考えるよりも体感したい場合などに用いるアプローチだと思います。したがって、そのことができなかったり続かなかったとしても、後悔や自己否定などするはずがありません。そのことがわかったり判断できたことで、新たな気持ちで前に進めるはずだからです。
「少しずつできることから、一歩ずつ」とは、簡単とか難しいなどの段階やレベルを示しているのではありません。必要だと定義されている、たとえば10個のうちの1個から(一つずつ)、丁寧に成熟または昇華させていく(上げていく)といった範囲を示しています。
そもそも、程度が低いとできて高いとできないのは、要するにそれではできない(必要としない、困っていない、放棄したい)ということです。本当に必要であるならば、やるだろうし、やらねばならないのであって逃げられないのではないですか。物事の本質と定義そのものを曲げて解釈すると同時に、レベル自体をどんどん下げていては、根本的な解決には遠ざかっているだけで行き着くはずがないと思います。
毎日30分歩く行為を諦めて週末に歩くとレベルを下げたとしても、そもそも最初の目的に近づいているのでしょうか。これから徐々にレベルを上げるといっても、本当に上げられるのでしょうか。もし簡単に上げられるというのなら、なぜ最初からできないのでしょうか。そのできるのではとの根拠は、どこにあるのでしょう。
ここで「目標」について考えてみますが、そもそもその「目標」が本当に必要かどうかです。「自分なりの行動」とは、何を指しているのでしょうか。必要か必要ではないかを指しているとは、とても想像できませんでした。
なんとなく憧れたり、人のものを模倣してみたり、カッコいいなと思って始めようとする程度の漠然とした目標ならば、そもそもいま本当に自分は必要としているのか、それをしないと困ってしまうのかと、自問自答することが大切です。
そもそもその程度の欲求なのですから、続けられなくても良いのであって、できないしないのはある意味では正しい姿です。そんなに真剣に考えている訳ではないので、できなくたって別にどうってことはないのですから。まずはそのこと自身に本当に興味を持っているか、実現したいという真剣な気持ちを持てるのか、ならば持つためにはまずは何をすべきかを考えるべきです。
レベルを下げて実現できたことが、すなわち興味を持っていることとは相違すると理解すべきです。
健康維持のために(本当の真の目的は分かりませんが)、本当に有酸素運動をしたいと真剣に思うのなら、自宅で「スクワット運動」や「踏み台昇降運動」など手軽で簡単に行える運動がたくさんあります。雨が降ったり雪が降ったとしても、就寝前やお風呂前に30分程度行えばすむことだと考えられれば、毎日だとしても苦にはならないことでしょう。
手段のレベルを下げるのではなく、敷居を下げた(取り掛かりやすい)他の手段にすることで、いくらでも実現することができます。本当にそれを必要としているのならばです。
言い訳をする人の多くは、自分以外の外に自己否定の原因(理由)を求めている人です。自分が決して悪い訳ではなくて、誰かが何かが邪魔をするからできないと定義する人です。自分以外の外に理由を求めている限り無限の理由が存在してしまい、きりがありません。
さらに自分は悪くないので、自分を変える(変わる)必要性を感じないため、かえって根を深くしています。
言い訳をしてはいけないのではありません、言い訳を最終的には自分に対して向けていかないと、何も解決しないですよということです。自分のダメな箇所を見つけて真摯に受け止めては、自分のここがいけないのだから、今度はこうして変えてやってみよう。そこを少し直して、またチャレンジしてみようなどです。原因や理由が自分にあるのだから、昨日と違う自分に、自分自身を変えていくしかないのです。
一見すると、正しい考え方でありアプローチと錯覚してしまっている点が、かえって根の深さを物語っていると思い、とても苦慮したコラムです。
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